『訂正可能性の哲学 (ゲンロン叢書)』
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正しいことしか許されない時代に、「誤る」ことの価値を考える。世界を覆う分断と人工知能の幻想を乗り越えるためには、「訂正可能性」に開かれることが必要だ。ウィトゲンシュタインを、ルソーを、ドストエフスキーを、アーレントを新たに読み替え、ビッグデータからこぼれ落ちる「私」の固有性をすくい出す。ベストセラー『観光客の哲学』をさらに先に進める、著者30年の到達点。
目次
第1部 家族と訂正可能性
第1章 家族的なものとその敵
第2章 訂正可能性の共同体
第3章 家族と観光客
第4章 持続する公共性へ
第2部 一般意志再考
第5章 人工知能民主主義の誕生
第6章 一般意志という謎
第7章 ビッグデータと「私」の問題
第8章 自然と訂正可能性
第9章 対話、結社、民主主義
第1章「家族的なものとその敵」。章題からわかるようにポパーのプラトンへの批判を見ながら、そこにあるねじれと思われるものとトッドの家族と社会体制の観点をからめることで、私たちはどこまでいっても家族的な考え方から抜け出られていないのではないかと示される。
第2章「訂正可能性の共同体」。家族と聞いてまっさきに思い浮かべたウィトゲンシュタインの家族的類似性が紹介され、そこからクリプキの共同体論へと接続される。その観点から「家族」という概念が新しいイメージ──閉じているが閉じ切ってはいない──のもと再定義される。
第3章「家族と観光客」。この章では、前著の「観光客」と本書で新しく定義された「家族」との接続が試みられる。閉じているが開いてもいる家族と、敵でも味方でもない観光客。そのような単一の性質に固定されない動的な在りようが本書では提示されるのだろうなと、ひとまず思う。
第4章「持続する公共性へ 」。ここではアレントの思想が呼び出され、公共性が単に「開かれたもの」という性質だけでなく、「持続性がある」という性質を持つものでないとならない、という点が確認される。ゲームが続いていくこと。ここでは、静的ではなく動的なまなざしが必要になるだろう。
第5章「人工知能民主主義の誕生」まで。社会の複雑化と情報技術の発展によって期待される、人間によらない統治としての人工知能民主主義。それは異端というよりも、ルソーのような人間嫌いの思想家の流れをそのまま引き継いだものとして捉えられる、という出発点が示される。
第6章「一般意志という謎」まで。ルソーの「一般意志」という概念を当人の人間性や他の著作を踏まえながら再解釈される。自由な個人の肯定と、社会の肯定というねじれから生じる、遡行的に見出された(構成された)ものとしての「一般意志」。その訂正可能性を見失っていては危うい、と。
第7章「ビッグデータと「私」の問題」まで。ビッグデータは、「私」という固有性を扱うことができない。それはそのまま主体化が起こらないことを意味し、それが民主主義において問題を持つ。ここで提示さられる、訂正可能性と主体化のつながりが、個人的には重要に思える。
第8章「自然と訂正可能性」まで。『新エロイーズ』の読解を中心に、ルソーの中にあったであろう素朴な自然と人工的な自然の対比が確認される。「自然」なものもまた上書きされる。外部にあって絶対的なものでありながら、内部から相対化され書きかわっていくような両義的なもの。というか、両義的だと人には思える(そういう認識しかできない)ということなのだろう。
本論の『新エロイーズ』解釈にとって、この発言はきめて重要である。ヴォルマールは自然に作為を加えている。にもかかわらずその痕跡を隠すことで自然のままにみせかけている。これは庭だけに限った話ではない。クララン経営の根底にある哲学の話でもある。ヴォルマールは「小さな社会」においても、たえず人間関係に手を入れている。けれども同時に、作為の痕跡を隠すことで、人々が自然の感情が促すまま、自発的に親密に交際しているかのように計らっているというのだ。
人間が関与する「自然」について。それをどのように位置づければよいか。
第9章「対話、結社、民主主義」まで。健全な統治を維持するために、無数の「小さな社会」を存在させなければならない。喧騒ある、私的で、理性的ではないかもしれない終わりなき対話。
その終わりなき対話は、持続する場とともにあるのだろう。革命的リセットではなく、間違えながらも正しさに向かい続けていくその動きの中に。